さて新本當能さんという人が作者として浮上してきたきっかけ。
それは、今
石垣市立図書館に保存されている一冊の本。それはもともと新本家が所蔵していた「官話(中国語)」の教科書でした。その最後のページに「
工尺譜」という楽譜が書き込まれていました。これ、今の工工四の元になった中国の楽譜で、同じ字を使っている部分もあるけどあらわす音はどうやら違うみたいで、
西洋音階ソラシドレミファ(ファ#)ソラシド
工尺譜合四一上尺工凡六五乙仩
工工四合乙老四上中尺工五六七
となるそうです。(対照表は「
明清楽」サイトの表を元に製作)
それに従ってこの「官話教科書」の最後のページに書かれた工尺譜をドレミに直してみると、
ミーミソ|ラー
ドー|ミソミレ|ドー
ミミラ
ド|ソラ
ドー|ミソミレ|ドー
ミレラ
ド|ソラ
ドー|ミレドラ|ソー
ソソミミ|ソミレー|ラソミレ|ド
ラドレ
ミレミレ|ミーソー|ソラ
ドー|ラ
ドラソ
レミソー|ラソミレ|ドードド|ドミレー
ラソミド|ミレドー|ソラ
ドー|ミレドラ|ドー
(赤字は1オクターブ下、青字は1オクターブ上を表す)
といういかにも中国っぽいメロディーが浮かび上がってきた……
この工尺譜に書かれたメロディは特定の歌ではなく、どうやら 当時の中国の音楽(清楽)によくある基本的なメロディパターンを並べたものらしいのです。當能さんはこの楽譜を福建省の琉球館の土通事(琉球語通訳官)ルートを通じて入手し、ひそかに書き写して残してきたらしい(ひそかに、というのはワケがある。それは後述)。
(思いっきり余談ですが(笑)、年末の大掃除の時にヘビーローテーションしていて歌詞を覚えてしまったという「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」の主題歌のメロディーライン、この工尺譜に出てくるメロディーパターンに似通った部分がけっこうある。それもそのはず、実はこの主題歌じたいが「清楽」の代表的な名曲「将軍令」をもとにして作られたものなんだそうです。)
當能さんの工尺譜のメロデイの冒頭が当時福建省で流行していた「茉莉花」に似ていたのは偶然ではなく、たぶんそのルートを通じて福建省バージョン「茉莉花」の楽譜もなんらかの形で入ってきてたのじゃないか、それが「安里屋ユンタ」を作る時に活用されたのではないかということです。
ちなみに福建省バージョン「茉莉花」のメロディはこんな感じ。
ミーミソ|ラー
ドラ|ソーソラ|ソー(2回繰り返し)
ミーソー|ミソラー|ミーレー|ミソミレ|ドー
ミードー|レーミソ|ソーラー|ソラソミ|レミソー|レソミレ|
ドーーレ|ドードー| ラド|レーレミ|ドラソラ|ソー
当時中国で流行していた「茉莉花」という歌、昔からある民謡だったらしいのですが、当時の福建省では特別な意味を持っていました。
1858年夏、福建省の建陽関で政府軍を追い払った「太平天国軍」を迎えた民衆が、その時満開だった茉莉花の鉢植えを「天下太平」の形に並べ、「茉莉花」を歌って太平天国軍の入城を迎えたという出来事がありました。以来この歌は民衆の解放願望を強く反映する一種の「革命ソング」になっていきます。
(とすると中国政府がこの歌を北京オリンピックで使ったというのもなんらかの意図が……)
そのため當能さんは政治的見地からも「茉莉花」のメロディをそのまま使うのを避け、当時すでにあった「安里屋節」と「茉莉花」と、自分が持っていた「清楽メロディダイジェスト(笑)」を使って、こんなメロディを作り上げました。
ドードミ|レーレド|ドーレミ|
ソーソラ|
ソーソラ|ララララ|
ソラド|ラーソミ
レーミラ|ソーミレ|ドードミ|レドレミ
ソーソラ|ドミレレ|ドー
(黒字は元の安里屋節、赤字は清楽メロディダイジェスト、青字は茉莉花を使ったと見られる部分)
これが今の「安里屋ユンタ」の元になったのだということです。
さて最後に。「安里屋ユンタ」の作者として新本當能さんの名前が歴史に残らなかったわけと、製作の過程に「茉莉花」やさまざまな清楽資料が使われた証拠が残らなかったわけ。
それはもちろん、「茉莉花」が一種の清朝版「
インターナショナル」であったことも大きな理由でしょう。
それともうひとつは「琉球処分」です。明治政府は清国に琉球を日本の領土と認めさせ、そのかわりに八重山・宮古の「先島諸島」を清国に譲渡しようとしました。これが実現してたら、石垣島は今頃台湾と連合して「中華民国」の一部となってたかもしれません。
これは結局実現しなかったけれど、当時の琉球士族たちは「親日派」と「親清国派」に内部分裂。新本當能さんはこの頃少なくとも外部からは「親清国派」と見られていたはず。しかしその後、明治政府の強硬な態度と琉球士族の妥協によって事態は沈静。逆風が吹いて風俗・習慣の「ヤマト化」が進められ、逆に清国的要素は消し去られて行きます。
(今八重山に残っている痕跡は、八重山だけにある「一揚げ」という調弦と、それが「シナチンダミ」と呼ばれている、という言い伝えくらいか)
そんな中で、さまざまな清楽の楽譜などの資料も(當能さんがひそかに書き残していた工尺譜をのぞいて)意図的に処分され、失われていったのではないか、というのが佐々木さんの推理。
今わたしたちが沖縄の音楽を学ぶうえでもあまり中国の影響が語られず、逆に江戸時代の小唄や歌舞伎、能楽などの影響が強調されるのも、この時代から続く「唐ぬ世からヤマトぬ世、ちょっとアメリカー世を経由してまたヤマトぬ世」という流れが、「中国」という方向へのわたしたちの視線をさえぎっているのでは、という気がします。
もしこの説が本当であれば(100%本当という証拠はないわけで、今後の反論が待たれる)、わたしが以前ホームページに書いた「
安里屋ユンタ」の歌詞に結末の違う2バージョンがある理由も、180度違ってくる可能性が……
つまり今までは一般的には竹富島バージョンの、
「クヤマは目差主に肘鉄を食わせるけど上役の当屋(あたりょうや)にはなびき、振られた目差主は腹いせに別の村のイスケマというかわいい女の子をゲットしましたとさ」という歌詞があって、のちに石垣島で
「どうせならクヤマにはかっこよくふたりとも振って欲しかった」という願望から石垣島バージョンの歌詞ができた、という説が一般的でしたが(わたしもそう聞いた)。
実は新本當能さんをはじめとする石垣島のお役人さんの「これからは清く正しくいきましょうよ」という願望から石垣島バージョンの歌詞がひろめられ、それに対抗して竹富島では、
「へっ、あんなキレイごと言ってるけど真相はこうだったんだぜー」
という「実録バージョン」ができたんじゃないかと。つまり今で言えば新聞の公式報道と芸能系週刊誌の「あの事件の衝撃の実態」みたいなものなのでは(笑)。