2010年01月23日

「安里屋ユンタ」に関する衝撃の真実 その2

「安里屋ユンタ」に関する衝撃の真実 その2
さて前回は、「安里屋節」+「茉莉花」+アルファ=「安里屋ユンタ」というところまでお話しました。
「安里屋節」は、喜舎場永珣というこれまた八重山研究では有名な人の説によれば、1820年代に竹富島の人が作詞作曲したものらしい。佐々木さんは「かぎやで風節」と「安里屋節」の類似性から、「安里屋節」が琉球古典曲の全盛期にその影響下で成立したもの、と推定。

……いやその、わたしの印象では「そんなに似てるかな~?」と思うので、ここら辺の具体的根拠など知りたいのですがね。タラ~

まぁとにかく、これはこのまま置いといて、ここから「安里屋ユンタ」が分離した時期。
これは、「沖縄学の父」伊波普猷が1912年に八重山を訪れた時のレポートを琉球新報に寄せた中に、女の子が四人、田植えをしながらうたっていた歌のことがあり、どうやらこれが安里屋ユンタだったらしい。で、佐々木さんの推論によれば、明治末年には「安里屋節」と「安里屋ユンタ」が別の歌として分離していて、その頃にはその分離の事情などわからなくなっていたらしいことから、「安里屋ユンタ」が「安里屋節」から分離成立したのは19世紀半ばだったのではないかと推定しています。

さて、八重山の農民達のワーキングソングである「安里屋ユンタ」が新しく作られた事情。それには1853年頃に琉球王府から出たひとつの通達が大きな意味を持ってきます。すなわち、それまで90年間禁止されていたお祭りやモーアシビでの歌舞音曲の解禁。八重山民謡やってる人なら、「アカマター節」の、

くぬ島ぬ習れや 遊びでぬ習い 御免しゅみしょうり我島主の前
(この島の慣わしで 祭りの時には歌い踊って遊ぶものなのです。今日ばかりはお許し下さいお役人様)

という歌詞を思い出すかもしれません。似たような禁止令は沖縄本島でも出されていて、「恩納節」には

恩納松下に 禁止ぬ牌ぬ立ちゅし 恋忍ぶまでぃん 禁止やねさみ
(恩納の松の下に 禁止令の立て札が立っている。まさか恋することまでは禁止じゃないでしょうねぇ)

という恩納ナベの作った歌詞が使われています。

これらの禁止令はもともと、お祭りで歌い遊ぶことによって農民が一体感や結束感を強め、お上に対して反抗的になることを恐れたための処置でした。ところが……
今沖縄で行われているさまざまなお祭り、それから歌と踊りを抜いちゃったらどうなるか。そりゃ盛り上がらないことおびただしい。モーアシビだって歌と踊りなしでどうやれっていうのよ。現代の合コンだって、カラオケとかに行ってさらに盛り上げてるわけでしょ?
最近参加してないのでよくわからないけど(自爆)。

そんな禁止令を90年間続けてきた結果、八重山地方では「明和の大津波」をきっかけにどんどん人口が減少……ダウン
この事態にあわてたのは琉球王府。いまでも政府が「少子化対策」にやっきになるのと同じで、人口が減れば税金収入が減るわけです。
そこで琉球王府は歌舞音曲を解禁して農民たちの勤労意欲を盛り上げるとともに、監察官を八重山に派遣、その報告に基づいて、役人の怠慢が農民の勤労意欲をそいでいることを指摘し、今後は各役人に担当地区の村に住み込んでしっかり働くことを命じ、その際に役人たちが役得として農民に接待させたり、「賄い女(自分専属の身の回りのお世話係)」を出させたりしていた旧来の習慣を禁止しました。

これも「安里屋ユンタ」はもちろん、「与那国ションカネー」とか「多良間ションカネ」、さらには「収納奉行」でもおなじみの風景。この頃まではごく当たり前の習慣だったこの風習が公式に「よくないこと」と認められた、これが今八重山で一般的に歌われている「安里屋ユンタ」(♪黒サー君は野中の……じゃないほう)の「安里屋のクヤマという美女が目差主と当屋というふたりのお役人から賄い女に、と望まれたが、クヤマはお役人さんより島の男がいい、とふたりとも振ってしまいましたとさ」というストーリーの歌詞ができてくる素地を作ったのではないか、と佐々木さんは見ています。
(それまでなら、お役人の意向に公然と逆らう内容の歌など歌える状況じゃないはず……なので)

そんな中、ただ歌舞音曲を解禁するだけでは足りない、農民の気持ちを明るくし、労働意欲を盛り上げるような新しい歌を作らなければ、という気風が八重山のお役人たちの間で盛り上がり、さまざまな試みがなされたらしい、と佐々木さんは推定しています。
当時のお役人が残した資料の中に、たくさんの音楽関係の本や工工四や琉歌集、ヤマトの歌集や謡曲の抜き書きがあることから、なんとかこういったネタをもとに農民の嗜好に合う歌を捜し出して作りたい、と考えたのではないか、というのが佐々木さんの推論。

しかし、今までのヤマトの歌や琉球古典、八重山古典と言われる歌ではいまいちパンチに欠ける、もっと斬新で楽しい歌はできないものか……と考えたのが、八重山の下級役人で唐通事(清国語通訳)の新本(あらもと)家出身の新本當能さんという人。
この人がいかにして「安里屋ユンタ」を作り上げたか……というのは、続きをお待ち下さい(笑)。

その3に続く)


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Posted by 唯ねーねー at 16:32│Comments(0)三線
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