2011年11月20日
新少林寺

見てきました~。
公開初日の字幕版一回目を見に行ったなんて、多分初めて(笑)。
(気合入ってたというより、ここで見とかないと次のスケジュールの都合がいつつくかわからなかったので……)
いちおう少林カンフーの一端に触れ日々鍛錬……とまでは行かなくても型のひとつくらいモノにしようと修行中の身(笑)でありますから、見逃すわけには参りません。 で、感想は……
はい、よかったです~。
単なるカンフーアクション映画じゃありません。
その辺がヤダ、という人もいるだろうけど、今までの少林寺モノとは一線を画した新しい少林寺映画であることは確か。
とりあえずあらすじはコチラでどうぞ。
この後は唯ねーの「少林寺について語っちゃうよ~」コーナーです。多少オタクな言動(&ネタバレ)はご容赦のほどを。
カンフー映画を見るようになって、貸してくれる友人の協力(笑)もあり「少林寺」「阿羅漢」「少林寺三十六房」「少林寺木人拳」など、いわゆる「少林寺モノ」はいろいろ見てきました。
でもいつも見るたびに感じる疑問があって、わたしはそれを「少林寺ジレンマ」と呼んでたんですが、つまり
お坊さんたちは、「殺生してはならない」という仏教の基本原理と、結果的に殺傷能力を持ってしまう武術修行との矛盾点をどう解決するのか
という問題。
一昔前のエンターテイメント映画は、つきつめていくとそもそも映画作れなくなっちゃうので、そのへんはうやむやに処理……
「少林寺」や「木人拳」では主人公が復讐を遂げた後で見習いの身から正式の僧侶になる、という解決法をとり、「阿羅漢」では敵役に最後の止めを刺すのは僧侶ではなく俗人という逃げを打ってました。
「三十六房」では、他の人が止めを刺している間主人公は背を向けて祈ってたりしてたし、ラスボスとの戦いではきっちりと止めさしてたし。
時には「相手がこれ以上悪い業を積まないうちに殺してあげる」という論理になっていたのもあったなぁ。
これって結局某新興宗教テロ集団の論理と同じ……
でも今回の「新少林寺」には、そんなジレンマにひとつの解決法を示しており、わたし的にはちょっとすっきりしました。
解決のキーワードは「断捨離」!
(いや、映画でそういうセリフがあるわけじゃないですよ。これはあくまで極私的解釈)
「断」は生命への執着を断つ
「捨」はモノにこだわる心を捨てる
そして「離」は心のよりどころとなる場所といえどもいざとなれば離れる
だからこの映画でのカンフー修行では、今までのように戦闘能力をつける体力トレーニング場面は一切出てきません。自分の心身を鍛錬していく型の繰り返しのみ。そこに「今までの少林寺モノとは違うんだぞ」というメッセージが込められているような気がしました。
そしてラスト近く、極限状態に追い込まれた坊さんたちはバタバタと死んでいきます。でも、どんな壮絶な死に様をとげてもみんな穏やかな表情で死んでいくのよねぇ。あれはスゴイと思った。
昔「少林寺」や「阿羅漢」で素敵なおじさま師父として登場したユエ・ハイさんが方丈(少林寺のトップ)役で出てきたのも感激。
まるであのまま少林寺で修行続けて悟り済ましたような風格で、もう出てきて慈悲にあふれたお言葉が聞けるだけでも満足なのに、あのご年齢で予想以上に貫禄あるカンフー技も披露。この方丈様の身の処し方もお見事です。
そして「ナイスガイ」以上に「戦う料理人」だったジャッキー! もう最高!
「ダブル・ミッション」でフライパン武器にしたアクション以上に豪快な、「中華鍋武器にするアクション」は萌えた(爆)。
出番多くない割りにはしっかり美味しいとこ持ってってるし……
もう言うことありません。満足です。
あ、本来の主役のアンディ・ラウとニコラス・ツェーのコメント忘れるところだった。
もちろんふたりとも好演です。
初め傲岸不遜な軍閥の将軍侯杰として登場するアンディ・ラウ。しかしその言動には、決して真の安らぎを得ることができない修羅の心がほの見えます。
侯杰が最初の方で放つ「殺さなきゃ殺される」というセリフを聞いた時あっと思いました。
リー・リンチェイ(ジェット・リー)が「少林寺」でユエ・ハイ師父に同じセリフを言っていたのを思い出して……
その後最愛の娘を死なせる羽目になって絶望のどん底に落ちる侯杰。それをきっかけに改心し、人間として再生していくあたりはジェット・リーの「SPIRIT」を思い出しました。
さて、このあと侯杰がどのように「殺さなきゃ殺される」という論理を超えて悟りの境地に達するのかは見てのお楽しみ。
あともうひと言マニアックなこと言わせて貰えば……
例の「ハ! ハ! ハ!ハッ! ハ!」とか「小紅拳」あたりちょっと出して欲しかったなーという気もするけど、「七星拳」もカッコよかったです(なんのこっちゃw)。
でもいつも見るたびに感じる疑問があって、わたしはそれを「少林寺ジレンマ」と呼んでたんですが、つまり
お坊さんたちは、「殺生してはならない」という仏教の基本原理と、結果的に殺傷能力を持ってしまう武術修行との矛盾点をどう解決するのか
という問題。
一昔前のエンターテイメント映画は、つきつめていくとそもそも映画作れなくなっちゃうので、そのへんはうやむやに処理……

「少林寺」や「木人拳」では主人公が復讐を遂げた後で見習いの身から正式の僧侶になる、という解決法をとり、「阿羅漢」では敵役に最後の止めを刺すのは僧侶ではなく俗人という逃げを打ってました。
「三十六房」では、他の人が止めを刺している間主人公は背を向けて祈ってたりしてたし、ラスボスとの戦いではきっちりと止めさしてたし。
時には「相手がこれ以上悪い業を積まないうちに殺してあげる」という論理になっていたのもあったなぁ。
これって結局某新興宗教テロ集団の論理と同じ……

でも今回の「新少林寺」には、そんなジレンマにひとつの解決法を示しており、わたし的にはちょっとすっきりしました。
解決のキーワードは「断捨離」!
(いや、映画でそういうセリフがあるわけじゃないですよ。これはあくまで極私的解釈)
「断」は生命への執着を断つ
「捨」はモノにこだわる心を捨てる
そして「離」は心のよりどころとなる場所といえどもいざとなれば離れる
だからこの映画でのカンフー修行では、今までのように戦闘能力をつける体力トレーニング場面は一切出てきません。自分の心身を鍛錬していく型の繰り返しのみ。そこに「今までの少林寺モノとは違うんだぞ」というメッセージが込められているような気がしました。
そしてラスト近く、極限状態に追い込まれた坊さんたちはバタバタと死んでいきます。でも、どんな壮絶な死に様をとげてもみんな穏やかな表情で死んでいくのよねぇ。あれはスゴイと思った。
昔「少林寺」や「阿羅漢」で素敵なおじさま師父として登場したユエ・ハイさんが方丈(少林寺のトップ)役で出てきたのも感激。
まるであのまま少林寺で修行続けて悟り済ましたような風格で、もう出てきて慈悲にあふれたお言葉が聞けるだけでも満足なのに、あのご年齢で予想以上に貫禄あるカンフー技も披露。この方丈様の身の処し方もお見事です。
そして「ナイスガイ」以上に「戦う料理人」だったジャッキー! もう最高!
「ダブル・ミッション」でフライパン武器にしたアクション以上に豪快な、「中華鍋武器にするアクション」は萌えた(爆)。
出番多くない割りにはしっかり美味しいとこ持ってってるし……
もう言うことありません。満足です。
あ、本来の主役のアンディ・ラウとニコラス・ツェーのコメント忘れるところだった。
もちろんふたりとも好演です。
初め傲岸不遜な軍閥の将軍侯杰として登場するアンディ・ラウ。しかしその言動には、決して真の安らぎを得ることができない修羅の心がほの見えます。
侯杰が最初の方で放つ「殺さなきゃ殺される」というセリフを聞いた時あっと思いました。
リー・リンチェイ(ジェット・リー)が「少林寺」でユエ・ハイ師父に同じセリフを言っていたのを思い出して……
その後最愛の娘を死なせる羽目になって絶望のどん底に落ちる侯杰。それをきっかけに改心し、人間として再生していくあたりはジェット・リーの「SPIRIT」を思い出しました。
さて、このあと侯杰がどのように「殺さなきゃ殺される」という論理を超えて悟りの境地に達するのかは見てのお楽しみ。
あともうひと言マニアックなこと言わせて貰えば……
例の「ハ! ハ! ハ!ハッ! ハ!」とか「小紅拳」あたりちょっと出して欲しかったなーという気もするけど、「七星拳」もカッコよかったです(なんのこっちゃw)。
Posted by 唯ねーねー at 22:39│Comments(0)
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