久高オデッセイ
今日、江東区の森下文化センターで完成披露上映会が行われた映画「
久高オデッセイ」を見てきた。
詳細は
こちらを見ていただくとして、この映画は言ってみれば「イザイホー」消滅後の久高島を描くドキュメンタリーだ。
12年に一度のイザイホーがなくなったからといって、「神の島・久高島」が消滅してしまったわけではない。そのほかの神行事は依然として続けられているし、島の時間は今までどおり流れている……もちろん、外の世界が刻々と変わっていく今、久高島もその影響を免れることはできないわけだけど。
映画には、見覚えのある風景が次々登場してとても懐かしかった。もう5年になるのかぁ……
わたしが久高島を訪ねたのは
2001年の初夏。最後のイザイホーが行われてから23年後。その翌年にも、やはりイザイホーは行われなかった。
満点の星の下で、三線弾きながらウミンチュのおじさんたちと泡盛を酌み交わした夜
島内を自転車で回った時、なぜかたどりつけなかったクボー御嶽
島の端、カベール岬で見たこの世のものとは思えない風景
突如故障した(シャッターが下りなくなった)カメラ
島内巡りに疲れて宿で横になった耳に聞こえてきた、「慰霊の日」記念式典のテレビ中継の音
そんな、他の離島の旅では出会わなかったような「不思議」に立て続けに見舞われたあの島は、わたしにとってもやはり特別な島だ。
「久高オデッセイ」では、滅びていくもの(最後の「
ソールイガナシ」の引退、老朽化し、解体し燃やされるサバニetc.)、新しく始まるもの(海ぶどうの養殖、島の郵便局etc.)、一度途絶えながらも復活したもの(イラブー漁etc.)、そして変わらず続いていく日々の営み、祝い事、神行事が、すべて等しい視線で淡々と描かれていく。
もちろん、イザイホーが行えないことを神に詫びる神職の老女の後姿や、燃やされるサバニを見つめるウミンチュたち(あの中にはあの晩一緒に飲んだおじさんもいるのだろうか)の表情は、見ていて胸のつまるものがある。でも、だからといってわたしたちには、その時の流れを止めることはできないし、島の行く末は島の人たちにしか決められない。
わたしたちにできることは、ただ見守ることだけ。こういう島があるのだということを、忘れないでいることだけ。
でも、できるだけ多くの人に見てもらいたい映画だし、特に一度でも久高島に行ったことのある人にはぜひ見てもらいたいなーと思う。
それにもうひとつ。
この島の置かれている状況って、多かれ少なかれ他の離島でも起きてることなんだよね。いや、島に限ったことじゃない。わたしがかかわっている琉球音楽の世界でも……
多少の変化には目をつぶって存続させるか、純粋な形を守って滅びゆくにまかせるか。
久高島では、「イザイホー」に関しては後者の立場をとった。「イラブー漁」に関しては前者の立場をとるようだ。
それぞれの世界で、どちらの立場をとるかはその当事者にまかされている。
そんなことも考えさせられる映画だった。
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